今から25年前に出版された本にもかかわらず、つい最近読みました。
そうです、今、店頭で「もっと若い時に読んでいれば・・・」と大きく帯に書かれて、山積みされているのを見て、つい買ってしまったのです。
まさに、本当に出版されたときに読んでいればなぁ、、、と言うのが正直な感想でした。
もっとも、当時の私は、司馬遼太郎、城山三郎(いわゆる、「太郎、次郎、三郎」ですな)などを、耽読しており、とてもそこまで頭が回らなかっただろうと思うが、さらにこの本で書かれている「思考の整理学」なるものは、現在でこそ光を放っているとも思える。
昨年からのベストセラーの影響もあってか、「知的生産術」なるものが大流行である。私も読んではみたものの、現代の競争社会を生き抜くためには、とにかく効率とスピードという世の風潮には、若干息切れがする。そこまで、全速力で駆けていかなければいけないのだろうか。そこで、物を見失うことの可能性は考慮しないのか。
確かに、効率的にものごとを進めていくことに異論はないが、全ての基準はそれだけなのであろうか。
話は横道にそれたが、25年前のアナログ全盛時の思考の整理学である。ものごとを考えていく上で、経なければならないプロセスが、非常に明快に、わかりやすいアナロジーで書かれている。どこをとっても、うなずくことばかり。
先に知的生産術に触れたが、実は、そこに書かれていることと、いくつかオーバーラップするところがある。両者が揃って推奨するのが、頭で考えたこと、思考の塊となって、脳から溢れてきたことを、書き物にすることである。こういった思考は、発表し批評を受けることでさらに磨かれる、という発想は共通している。もっとも、25年後の今、こうして非常に簡単に書き物(?)として、世間に発表できるというのは、さすがの外山氏でも創造できなかったであろう。
そして、両者の決定的に違うところ、それは情報への当たり方である。特に重要な情報源として、書籍をあげておられるのは同様であるが、それへの接し方は正反対。氏は、書籍の中から目に付いた情報を、カード等に書き出し、系統化して整理することを勧める。さらにそれらのカードをさらに整理して、二次情報化していく(情報のメタ化)。
こうして、抽象化された情報が自分の中に蓄積され、何かの拍子に、外部へ迸る情報発信につながっていく。
私も、本を読むときには、ついつい線を引いたり、ノートに書き写したり、今ではデータとしてPCに保存したりする癖があるが、「知的生産術」では、ばっさりそれを否定されたので、若干後ろ暗く感じていたので、まさに溜飲の下がる思いがした。
先に述べたごとく、現在の競争社会は、とにかく効率とスピードが第一で、本当に大事なことを見失っているのではないかと心配している。スピード競争の果ては、いったいどこにたどり着くのか。世を挙げて、効率とスピードに重きを置いている時代にこそ、逆に全く違うものを絶対の強みにしていくことが重要ではないか。
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