2月14日は、いわずと知れたバレンタインディ。日本中でチョコレートが最も売れる日だとか。
季節はずれの話題で恐縮だが、この本の著者こそが、日本でというか世界でバレンタインチョコを最初に販売したメリーチョコレートの社長である。
この西欧の習慣を上手く自社の販売に繋げた感性は素晴らしいものがあるが、それだけではない。
この本は、著者が毎週1回、社内報に書き続けたコラムを集めたもので、様々なテーマに及んでいる。
当然のことながら、社員向けに書かれたものであるから、経営者から従業員へのメッセージを伝えるために書かれており、これを通して従業員は、経営者の理念を共有していくことができる。また、重要なことは、そのメッセージが身近な出来事、或いは組織改革など転機となる出来事に対して、非常に平易な文章で書かれていることである。
恐らく、社内報で大上段に振りかぶった経営者の提言なんぞ誰も読みたくないのであって、思わず読みたくなるような、文章は心憎いばかりである。文章からは、経営に対する真摯な姿勢、顧客・従業員への愛情がひしひしと伝わってくる。
と、ここまでならごく一般にある経営者のエッセイ集になるのだが、この本にはさらにもうひと工夫がされている。実は、著者が書いた1000文字程度の提言の後に、その内容について、言葉を換え分かりやすく、或いはもっと普遍的一般的な内容に、逆に具体的な内容に書かれた(秘書記)と書かれた文章が挿入されていることである。
これが、素晴らしい。
巻末の解説によると、2名の女性秘書が分担して書いているようであるが、この文章が、全体の内容にさらなる厚みを増す効果をもたらしている。著者の思いが、いかに従業員の中で具現化されているかを表すまさに生きた証拠ともなっている。
社長と秘書のハーモニーでできあがった名著である。
「読書」に「旅行」。これらは無趣味の言い訳と古くから言われてきました。この二つに共通するのは「未知との出会い」です。これまで知らなかったものと出会うことは、どんな人にとっても心ふるわせられるもので、それを取り立てて趣味と呼ぶのはおこがましい、ということで、このように言われたのではないでしょうか。 恥ずかしながら、私の趣味はこの二つで、まさに「未知との遭遇」を心から楽しみにしています。 その感激(?)を少しでも表現できれば幸いです。 なお、ここで書いていることは、あくまで私の主観です。感想を書いたその瞬間の気分にも大いに左右されていますので、あしからずご了承下さい。
2008年4月29日火曜日
2008年4月14日月曜日
人は仕事で磨かれる ; 丹羽宇一郎
これまた、少し前の出版であるが、最近図書館で借りだして読んだものである。
毎日少しずつ読むつもりが、大変おもしろく、結構一気に読んでしまった。
著者は、伊藤忠商事を再生させた元代表取締役社長で、現在は経済財政諮問会議のメンバーでもある。
最近の読書傾向の一つとして、世の中の名経営者と言われる人たちの本を良く読んでいる。
日経新聞の私の履歴書が単行本化されている物が中心ですが、この本はそれとは違い、書き下ろしで書かれた物である。
ひとことで言うと、おもしろい。それに何よりも「自分はこれをやった!!」 という自慢話めいた物が出てこないところが心にすっと入ってくる所以であろう。
どうも、功成り名を遂げた方の自伝を読むと、苦労話は良いにしても、その後の自慢話と、それから始まる処世訓と言うパターンが多く、読んでいてもだんだん鼻についてくるということが非常に多い。
ところが、この本はそう言ったことがほとんど見られず、丹羽氏なりの思いや考え方が綴られており、好感が持てる。
経営者として就任してすぐに、「クリーン、オネスト、ビューティフル」という非常にわかりやすい言葉を標語として上げられた。
その上で、経営者にとって最も大事な素養は「コミュニケーション力」という。
如何に素晴らしい理念を持っていても、それが伝わらなければ、どうにもならないということだ。
それは、経営者が自らの言葉で、その組織の人たちに直接語りかけることが必要であるとも説いている。
実際、著者自身がそのようにもされていたようで、まさに有言実行の人であったようである。
最後に、丹羽氏というと、最近の経済財政諮問会議でのホワイトカラー・エグゼンプションに関する発言が新聞紙上を賑わせたことがある。
ところが、これも実際の趣旨とは全く違う形で報道されたもののようで、たまたまこの著書の中で、新聞報道などの二次情報は、しっかりと現地現場でその目で確かめることが必要、と書かれたこととと符合するようで、まさに納得と言うところ。
今は、この本も文庫本で手にはいるとか。絶対お得な一冊である。
毎日少しずつ読むつもりが、大変おもしろく、結構一気に読んでしまった。
著者は、伊藤忠商事を再生させた元代表取締役社長で、現在は経済財政諮問会議のメンバーでもある。
最近の読書傾向の一つとして、世の中の名経営者と言われる人たちの本を良く読んでいる。
日経新聞の私の履歴書が単行本化されている物が中心ですが、この本はそれとは違い、書き下ろしで書かれた物である。
ひとことで言うと、おもしろい。それに何よりも「自分はこれをやった!!」 という自慢話めいた物が出てこないところが心にすっと入ってくる所以であろう。
どうも、功成り名を遂げた方の自伝を読むと、苦労話は良いにしても、その後の自慢話と、それから始まる処世訓と言うパターンが多く、読んでいてもだんだん鼻についてくるということが非常に多い。
ところが、この本はそう言ったことがほとんど見られず、丹羽氏なりの思いや考え方が綴られており、好感が持てる。
経営者として就任してすぐに、「クリーン、オネスト、ビューティフル」という非常にわかりやすい言葉を標語として上げられた。
その上で、経営者にとって最も大事な素養は「コミュニケーション力」という。
如何に素晴らしい理念を持っていても、それが伝わらなければ、どうにもならないということだ。
それは、経営者が自らの言葉で、その組織の人たちに直接語りかけることが必要であるとも説いている。
実際、著者自身がそのようにもされていたようで、まさに有言実行の人であったようである。
最後に、丹羽氏というと、最近の経済財政諮問会議でのホワイトカラー・エグゼンプションに関する発言が新聞紙上を賑わせたことがある。
ところが、これも実際の趣旨とは全く違う形で報道されたもののようで、たまたまこの著書の中で、新聞報道などの二次情報は、しっかりと現地現場でその目で確かめることが必要、と書かれたこととと符合するようで、まさに納得と言うところ。
今は、この本も文庫本で手にはいるとか。絶対お得な一冊である。
2008年4月8日火曜日
思考の整理学 ; 外山滋比古
今から25年前に出版された本にもかかわらず、つい最近読みました。
そうです、今、店頭で「もっと若い時に読んでいれば・・・」と大きく帯に書かれて、山積みされているのを見て、つい買ってしまったのです。
まさに、本当に出版されたときに読んでいればなぁ、、、と言うのが正直な感想でした。
もっとも、当時の私は、司馬遼太郎、城山三郎(いわゆる、「太郎、次郎、三郎」ですな)などを、耽読しており、とてもそこまで頭が回らなかっただろうと思うが、さらにこの本で書かれている「思考の整理学」なるものは、現在でこそ光を放っているとも思える。
昨年からのベストセラーの影響もあってか、「知的生産術」なるものが大流行である。私も読んではみたものの、現代の競争社会を生き抜くためには、とにかく効率とスピードという世の風潮には、若干息切れがする。そこまで、全速力で駆けていかなければいけないのだろうか。そこで、物を見失うことの可能性は考慮しないのか。
確かに、効率的にものごとを進めていくことに異論はないが、全ての基準はそれだけなのであろうか。
話は横道にそれたが、25年前のアナログ全盛時の思考の整理学である。ものごとを考えていく上で、経なければならないプロセスが、非常に明快に、わかりやすいアナロジーで書かれている。どこをとっても、うなずくことばかり。
先に知的生産術に触れたが、実は、そこに書かれていることと、いくつかオーバーラップするところがある。両者が揃って推奨するのが、頭で考えたこと、思考の塊となって、脳から溢れてきたことを、書き物にすることである。こういった思考は、発表し批評を受けることでさらに磨かれる、という発想は共通している。もっとも、25年後の今、こうして非常に簡単に書き物(?)として、世間に発表できるというのは、さすがの外山氏でも創造できなかったであろう。
そして、両者の決定的に違うところ、それは情報への当たり方である。特に重要な情報源として、書籍をあげておられるのは同様であるが、それへの接し方は正反対。氏は、書籍の中から目に付いた情報を、カード等に書き出し、系統化して整理することを勧める。さらにそれらのカードをさらに整理して、二次情報化していく(情報のメタ化)。
こうして、抽象化された情報が自分の中に蓄積され、何かの拍子に、外部へ迸る情報発信につながっていく。
私も、本を読むときには、ついつい線を引いたり、ノートに書き写したり、今ではデータとしてPCに保存したりする癖があるが、「知的生産術」では、ばっさりそれを否定されたので、若干後ろ暗く感じていたので、まさに溜飲の下がる思いがした。
先に述べたごとく、現在の競争社会は、とにかく効率とスピードが第一で、本当に大事なことを見失っているのではないかと心配している。スピード競争の果ては、いったいどこにたどり着くのか。世を挙げて、効率とスピードに重きを置いている時代にこそ、逆に全く違うものを絶対の強みにしていくことが重要ではないか。
そうです、今、店頭で「もっと若い時に読んでいれば・・・」と大きく帯に書かれて、山積みされているのを見て、つい買ってしまったのです。
まさに、本当に出版されたときに読んでいればなぁ、、、と言うのが正直な感想でした。
もっとも、当時の私は、司馬遼太郎、城山三郎(いわゆる、「太郎、次郎、三郎」ですな)などを、耽読しており、とてもそこまで頭が回らなかっただろうと思うが、さらにこの本で書かれている「思考の整理学」なるものは、現在でこそ光を放っているとも思える。
昨年からのベストセラーの影響もあってか、「知的生産術」なるものが大流行である。私も読んではみたものの、現代の競争社会を生き抜くためには、とにかく効率とスピードという世の風潮には、若干息切れがする。そこまで、全速力で駆けていかなければいけないのだろうか。そこで、物を見失うことの可能性は考慮しないのか。
確かに、効率的にものごとを進めていくことに異論はないが、全ての基準はそれだけなのであろうか。
話は横道にそれたが、25年前のアナログ全盛時の思考の整理学である。ものごとを考えていく上で、経なければならないプロセスが、非常に明快に、わかりやすいアナロジーで書かれている。どこをとっても、うなずくことばかり。
先に知的生産術に触れたが、実は、そこに書かれていることと、いくつかオーバーラップするところがある。両者が揃って推奨するのが、頭で考えたこと、思考の塊となって、脳から溢れてきたことを、書き物にすることである。こういった思考は、発表し批評を受けることでさらに磨かれる、という発想は共通している。もっとも、25年後の今、こうして非常に簡単に書き物(?)として、世間に発表できるというのは、さすがの外山氏でも創造できなかったであろう。
そして、両者の決定的に違うところ、それは情報への当たり方である。特に重要な情報源として、書籍をあげておられるのは同様であるが、それへの接し方は正反対。氏は、書籍の中から目に付いた情報を、カード等に書き出し、系統化して整理することを勧める。さらにそれらのカードをさらに整理して、二次情報化していく(情報のメタ化)。
こうして、抽象化された情報が自分の中に蓄積され、何かの拍子に、外部へ迸る情報発信につながっていく。
私も、本を読むときには、ついつい線を引いたり、ノートに書き写したり、今ではデータとしてPCに保存したりする癖があるが、「知的生産術」では、ばっさりそれを否定されたので、若干後ろ暗く感じていたので、まさに溜飲の下がる思いがした。
先に述べたごとく、現在の競争社会は、とにかく効率とスピードが第一で、本当に大事なことを見失っているのではないかと心配している。スピード競争の果ては、いったいどこにたどり着くのか。世を挙げて、効率とスピードに重きを置いている時代にこそ、逆に全く違うものを絶対の強みにしていくことが重要ではないか。
2008年4月2日水曜日
人生論ノート ; 三木 清
恥ずかしながら、最近始めて読みました。
兵庫県出身で京都大学の西田幾太郎に師事した京都学派を代表する哲学者です。
私が、学生の頃は大学入試に出る本として、必読の書であったにもかかわらず、購入したままでこれまで手が出ることなかったものを、ようやく読もうという気になったものです。
彼が存命の頃に、雑誌に寄稿した23章の文章は、一言で言って難解。なかなか素人にすべてを理解するのは難しいですが、そこに書かれているテーマは身近な事ばかりで、それぞれの考察の深さ、多様さには驚かされます。
ただ、中には比較的解りやすいたとえなどで書かれている部分もあって、ホッとするところもあります。
今回この本を読んで、彼自身について少し調べてみると、活躍した時代は非常に短く、戦中に思想犯として投獄され、戦後すぐに獄中死しています。それが48歳。かつて学校の教科書で読んだような人が、このように自分の今の年齢と近い年齢で生涯を終えたことを思うと、感慨無量です。
この間に、多数の研究書を世に出しています。
で、この人生論ノートですが、第2章は「幸福について」です。
この最後のほうに次のような文章が出てきます。
『幸福は人格である。人が外套を脱ぎすてるやうにいつでも気楽にほかの幸福は脱ぎすてることができる者が最も幸福な人である。しかし眞の幸福は、彼はこれを捨れてもて去らないし、捨て去ることもできない。彼の幸福は彼の生命と同じやうに彼自身と一つのものである。この幸福をもつて彼はあらゆる困難と闘ふのである。幸福を武器として闘ふ者のみが斃れてもなほ幸福である。』
どうです、しびれませんか!!
ほかにも、『人生は、フィクションである。だからどのやうな人でも一つだけは小説を書くことができる。』など、ほかの所でも良く目にする言葉も出てきます。
一日一章ずつ読んでいってもすぐに読み切れる、素敵な書物でした。
兵庫県出身で京都大学の西田幾太郎に師事した京都学派を代表する哲学者です。
私が、学生の頃は大学入試に出る本として、必読の書であったにもかかわらず、購入したままでこれまで手が出ることなかったものを、ようやく読もうという気になったものです。
彼が存命の頃に、雑誌に寄稿した23章の文章は、一言で言って難解。なかなか素人にすべてを理解するのは難しいですが、そこに書かれているテーマは身近な事ばかりで、それぞれの考察の深さ、多様さには驚かされます。
ただ、中には比較的解りやすいたとえなどで書かれている部分もあって、ホッとするところもあります。
今回この本を読んで、彼自身について少し調べてみると、活躍した時代は非常に短く、戦中に思想犯として投獄され、戦後すぐに獄中死しています。それが48歳。かつて学校の教科書で読んだような人が、このように自分の今の年齢と近い年齢で生涯を終えたことを思うと、感慨無量です。
この間に、多数の研究書を世に出しています。
で、この人生論ノートですが、第2章は「幸福について」です。
この最後のほうに次のような文章が出てきます。
『幸福は人格である。人が外套を脱ぎすてるやうにいつでも気楽にほかの幸福は脱ぎすてることができる者が最も幸福な人である。しかし眞の幸福は、彼はこれを捨れてもて去らないし、捨て去ることもできない。彼の幸福は彼の生命と同じやうに彼自身と一つのものである。この幸福をもつて彼はあらゆる困難と闘ふのである。幸福を武器として闘ふ者のみが斃れてもなほ幸福である。』
どうです、しびれませんか!!
ほかにも、『人生は、フィクションである。だからどのやうな人でも一つだけは小説を書くことができる。』など、ほかの所でも良く目にする言葉も出てきます。
一日一章ずつ読んでいってもすぐに読み切れる、素敵な書物でした。
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