今からおよそ30年前に出版された講談社現代新書の一冊である。2008年2月で第73刷となっており、いかに長く読み続けられているかが良くわかる。最近は、こういったいわば古典的となった著書を好んで読むようにしている。
この本の中で、著者が知的活動の典型としているのが、本を読むこととそのアウトプットとしての執筆活動とされているので、もっぱら著者の読書論として読ませていただいた。
書かれていることはいちいち腑に落ちることばかりで、非常におもしろく一気に読んでしまったのであるが、特に印象に残ったことをいくつか。
まずは、本を繰り返して読むことである。
彼は、気に入った本があるととにかく何度も繰り返して読む癖があったそうである。これは少年時代の読書方法が習慣になっていたようで、特に捕物帖が大のお気に入りであったそうである。
この読書法は、夏目漱石も同じであったそうで、何度も繰り返して読む内に、おもしろさを感じるところも徐々に変わってきて、明らかにその本への理解度がさらに深まる、或いは新たな気づきが生まれるという。
現在、古典として現在まで残っている書物というものは、この繰り返しを何人もの人が行ってきているわけで、こういった数多くの人の評価を得たものが逆に古典として残ってきているわけである。
それぞれの人にとっても古典を作ろう、と言うことを勧めている。
翻って、私の古典と言えば、今にして思えばアルセーヌルパンなのである。
南洋一郎氏の翻訳による少年向けの全集を、何度も何度も読み返し、成人してからも堀口大学翻訳の新潮文庫版を何度も読み返しました。
第二点は、本は必ず買って読むこと、である。
簡単に言うと、本にかける金は惜しむな、と言うところである。
というのは、本は何度も読むものである上に、気になるところ、気に入ったところについては、どんどん書き込みをすることを提唱している。ここで朱書き線引きをしていると、読み返したときに、前回読んだときとの気づきの違いを体感できるし、何と言っても読み返すときに短時間で読むことができるとしている。
借りた本や図書館の本ではこうはいかないので、本は買って読めと言うことらしい。
実は、私も本は買って読む派で、例外的に図書館で小説などを借りることはあるが、基本的には購入し、気に入ったところは線引き、朱書き何でもありである。
今にして思えば、子供の頃から本の貸し借りをすることが嫌いで、本を貸すときなどは、自分の心の中まで見られているようで、恥ずかしい思いをしたものである。ましてや本を人から借りて読むなんて、実は人生の中でほとんど記憶にないのである。
最後の一つは、知的生活を送る上での障害物として挙げられているもの。
結婚すること、家族を持つことだそうである。
ただし、これには知的生活とは別の次元の興味深い生活が待っていると思うのであるがどうだろうか。
この本も、立派な古典として読み継がれているようである。
自分が読書好きなもので、いろいろな人の読書論には結構興味を持っていて、自分のことを話すのは気が引けるのであるが、人の読書歴を聞くのはその人の心の中が少し垣間見えるような気がして興味深い。
0 件のコメント:
コメントを投稿